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鷲宮神社 土師一流催馬楽神楽(国指定重要無形民俗文化財)
住所:埼玉県北葛飾郡鷲宮町鷲宮1-6-1 TEL:0480-58-0434

2004.10.10 撮影:彩の国満喫

−鷲宮神社の歴史−

古くは土師部(素焼きの土器などを作る人々)の移住地と伝えられ、社名も「土師(はじ)の宮」と称したといわれています。この「はじ」が「わし」に転訛して「鷲宮」になたとう社伝があります。 この鷲宮神社は、古代から存在したものと思われますが、書物に最初に登場するのは「吾妻鏡」で、ここには建久4年(1193)と書かれています。鎌倉時代になると関東における鎌倉幕府ゆかりの有力な神社として、鶴岡八幡宮、伊豆山権現、箱根権現、三島大社などの中に加えられています。 このように幕府に注目されたのは、鷲宮神社が惣鎮守として崇敬された地域(大田荘)が当時の河川交通、あるいは関東の中心部として政治的に重要であったためとも推測される。また、利根川流域の沃地で開発が進めば、多大なる収穫をもたらす可能性があったからといわれています。 鎌倉幕府滅亡後は、下野小山荘(栃木県小山市)の豪族で太田氏の支族である小山市の保護下に置かれ、その後も古河公方の足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏、後北条氏の祈願所となっています。 また、天正19年(1581)、徳川家康から400石の寄進を受けるなど昔から関東武士をはじめ厚く崇拝されきました。

−土師一流催馬楽神楽の起源と特徴−

鷲宮の神楽が書物に登場するのは、「吾妻鏡」の建久3年(1251)で、鷲宮神社の神前で神楽を行ったところ見事な託宣(神のおつげ)が現れ、祈願が成就したといいます。しかし、この神楽が今に伝わるものと同じであるかは定かでありません。 この他にも神楽を知る上で貴重な書物が残されています。一つは、享保11年(1726)、大宮司藤原国久の筆写による「土師一流催馬楽神楽歌実録(はじいちりゅうさいばらかぐらうたじつろく)」です。これには、神楽の中で歌われている催馬楽などの 歌詞や神楽で使われた衣装、持ち物などが詳しく書かれています。
もう一つは、天保年間(1830〜1843)に鷲宮神社の大宮司藤原国政が記した「鷲宮古式神楽正録」の写本で、神社の由来や神楽の詳細な内容が書かれています。 これによると、藤原国久が廃された祭祀を再興しようと「当社奥秘を社人に伝授」し、宝永5年(1708)に十二座神楽を行ったことがわかります。
これらの記録から、現在の十二座の神楽が編成さえrたのは、宝永5年〜享保11年頃、今から270〜290年ほど前であったと推定されています。 なお、この神楽は、関東神楽の源流といわれ、江戸の里神楽の基礎を形成しました。「海録」という書物によると、当時江戸で行われていた十二座の神楽の原形に、「土師の舞」と呼ばれるものがあり、これは十七世紀の後半江戸に入ってきたものであることがわかります。この「土師の舞」とは、 十二座に編成される以前の鷲宮神社の神楽のことであり、このことは「鷲宮古式神楽正録」にも書かれており、鷲宮側でもそのことが伝えられています。

− 編成と曲目 −

第一座   天照国照太祝詞神詠之段(神詠)
第二座   天心一貫末神楽歌催馬楽之段(榊)
第三座   浦安四方之国固之段(国固め)
第四座   降臨御先猿田彦鈿女之段(猿田彦)
第五座   磐戸照開諸神大喜之段(磐戸)
第六座   八州起源浮橋事之段(浮橋)
第七座   大道神宝三種神器事之段(三種神器)
第八座   祓除清浄杓大麻之段(みそぎ)
第九座   五穀最上国家経営之段(種蒔き)
第十座   翁三神舞楽之段(翁三神)
第十一座 鎮悪神発弓靭負之段(鎮悪神)
第十二座 天神地祗感応納受之段(感応)
外      天津国津狐之舞(天狐)
番外     太刀折紙之舞(折紙)
        端神楽

− 奏演日 −

・1月1日(歳旦祭)
・2月14日(年越祭)
・4月10日(春季祭)
・7月31日(夏越祭)
・10月10日(秋季祭)
・12月初酉日(大酉祭)




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